得られない性の悲しみ(社会編)

水曜日です。


昨晩日記を書いた後、性の得られない人生のつらさで頭がおかしくなってしまいました。

やむをえず無風(無限に風花雪月をやること)(久々)をしてkotonaki。攻略日記も書きました。


起床し、自宅待機案件をこなしました。

昨日のつらみがなかなか消えず虚無になっていましたが、とりあえずピアノをやりました。

途中、ピアノをやっても性は得られないんだよな的なやみの感情に支配されまたもや頭がおかしくなってしまいました。


その後、頭がおかしいまま横の構えで無限にごろごろしていました。

夜になったので慎重勇者を視聴しました。完成度がすごい。12話できっちり物語が完結しそうだし、伏線もきっちり回収しているし、なにより素直に面白いと思える作品です。やはり時代は慎重。私も慎重に100年くらいかけて出社するためのパワーを蓄えたい(出社するまえに人生が終わりたい)。

今週末は日曜に慎重勇者の最終回、月曜にバビロンの8話があるので充実したアニメタイムが得られそうです(よい)。


このように現世に目を向けさえしなければ、なんとか人生はやっていけるのです。

しかし、労をやることで、社会に出ることで、否応なく自身が社会では何も得られない存在であると自覚してしまう。

今の労自体はわるくない。しかし、労のその本質的な社会性が私の絶望を呼び起こしてしまうのです。


以上DEATH。