「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読みました。

「三宅香帆. なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書) 」を読みました。


本書は人間の活動を「文脈を必要とするもの」と「文脈を必要としないもの」に大別しています。

前者の代表として読書が挙げられており、必ずしも「読書ができない」ことにフィーチャーした本ではない。

実際、同じ文章を読むメディアであっても自己啓発本は後者としていました。スマホなども後者です。

文脈を必要とする活動は摂取するのに精神の余裕が必要で、文脈を必要としない活動は余裕がなくても摂取できる。


本書では労働の大きな問題点として、人生のリソースすべてを要求する点を挙げています。

これによって人間は余裕が失われるため、前述の文脈を必要としない活動(自己啓発本スマホなど)しかできなくなってしまう。

これが「スマホをやる時間はあるのに、読書の時間はない」の正体としています。


また労働は人間が文脈を必要としない活動をしたくなる動機づけになっているとも書いています。

文脈を考えなければ決断が容易であり行動につながるため、労働で成果が出しやすい。

そういうわけで、労働をすると文脈をよむ活動ができないし、むしろ文脈を読まない方が労働でうまくいくというやばい状況になっている。


著者は労働自体は好きだが、労働に全リソースを注ぎ込むことの危険性を訴えています。

明確な結論は書かれていないものの、労働に全リソースを注ぎ込む行為を美談とせず批判していきましょうみたいな終わりだった。


感想として、私が考える労働の問題点が書かれているなという印象でした。

よく「労の者は3秒先のことしか考えない」と思っているのですが、まさしく本書はそこを指摘していた。

しかし、一方で本書の締めで書かれているように批判の声を上げたところでどうにもならないとも思っています。

労働は確かに文脈を考えないことで成功するのですが、それは長時間人間を拘束することで人間を同質化し、そもそも文脈を考えなくてもみんな同じことを考えている状態にしているからと思っています。

つまり、労働が全リソースを要求しているのはまさに「そうすると成果がでるから」であって「労働が全リソースを要求するから文脈を読む活動ができない」「文脈を読む活動ができないから文脈を読まなくてもいいように全リソースを要求する」という究極の悪循環があると考えています。

上の方で「むしろ文脈を読まない方が労働でうまくいく」と書きましたが、文脈を読まなかったら何もかも上手くいくわけじゃなくて「全リソースを要求している」という前提の上でそうなってるだけなんですよね。

短期的には文脈を読まずに行動したほうがいいこともあるのですが、あくまで短期的。無限に文脈を読まずに行動して上手くいくのは全リソースぶちこみの賜物と思います。


総合すると、労働のよくなさを的確に説明しているものの、労働はここに書かれているよりずっとやばいぜ!という感想でした。